エアギターで腕が攣る

無題(Archive 2021)

2/12 19:07

先日のゲンロンカフェにて、菊地成孔が「軽やかに生きる為の処世術は?」という質問に対し、

SNSをしないこととカラダを動かすこと」

と答えたらしい。

直近の某騒動以前より氏のSNS嫌いは有名で、さもありなんといったところだ。

さて、この話を書こうと思ったのは、彼と町山氏の一連の騒動に関してここで深く言及したい訳ではなくて、SNSの使用について、広く自分自身の思うところを一度文章化しておきたいと思ったからである(あとはここ最近寝てばかりの休日に少しでも生産性を見出したいというある種の切迫も絡んでいる)。

というのも、昨今のSNSで日夜巻き起こる炎上案件や、バズ、その他SNS上で発生する凡ゆるヴァーチャルなコミュニケーションにかなり疲弊していることから、自分自身がある種のオーヴァードーズ状態に陥っていると感じるため、まずは自分自身のSNSに関しての所感をまとめ、然るべき対応を考え出したいのだ。限界が来る前に予防線を張っておきたい。そして何よりこうして文章を紡いでいる間は精神が安定する。

まず、SNSをすべきか否か?という点に関してだが、これは「用法容量」を守れば問題ないと思っている。ただ、この「用法容量」というのが非常に厄介で、というか、SNSにまつわる問題のほとんど全てがこの「用法容量」というワードに集約されてしまうような気がしている。

SNSの連続性ー止めどなく誰かが何かを発信しており、それを無制限に享受できてしまうというシステムーは俺からSNSの「やめ時」を奪い去る。

身体や精神の疲労が「やめ時」というよりも「限界」を感じ始めて、ようやくSNSから離脱するというのが常だが、そんな時には既に、眼精疲労、肩こり、そして「時間を浪費してしまった」という自己嫌悪に陥っており、心身ともに不健全な状態となってしまっている。

だが、「そんなに心身をやつすのであれば、SNSなどキッパリやめてしまえばいいではないか」という意見は極論すぎる。「用法」の問題が絡んでくるからだ。既に現代においてSNS上でのコミュニケーションは社会関係の構築の上で重要なファクターとなっているし、SNSに接続することで得られる恩恵というものも決して少なくない。

多感な時期にSNSが身近にあった世代ならよく分かると思うのだが、SNSに接続する術を持ち合わせていない時の交友関係の構築のことを考えてみてほしい。

学校というクローズドな世界においてコミュニケーションの機会の喪失がどれだけ焦燥感を煽るかは、想像に難くないだろう。

バーチャルなコミュニケーションとフィジカルなコミュニケーションというのは択一のものではなくなっている。どちらも必要不可欠なものだ。

また、SNSの即時性と拡散性は、世の中で起こっている情報を素早く、かつ広範囲から引き寄せることができるし、それによって社会の動きを曲がりなりにも知覚することができる(接続先によってこの社会の動きの知覚の仕方はいくらでも歪んでしまうので、かなりの注意が必要ではある)。

SNSにおける承認欲求の話にも触れておきたい。承認欲求の充足に関しても「用法」を間違えると悲惨な目に遭う。

手軽に世界に向けて自分自身の表現を発信できるSNSは、承認欲求を満たすのにあまりにもお誂え向けなサービスである(Twitterで一時期流行った「質問箱」というサービスはその最たるものだと思う。あの存在を知った時は、ここまでSNS使用者の快楽中枢にダイレクトに働きかけるものをよく作ったものだと感心した)。

手軽に多くの人に向けて表現を発信できる分、適切な人たちに適切な量の表現を渡していく、ということが非常に難しくなるのが問題で、自分自身の趣味嗜好と近しい人たちに自分の表現を発信することは何ら問題ないが、全く趣味嗜好が合わない人にとっては、その表現は不快なノイズでしかなかったりする。

そうしてその表現を不快だと感じた人達から攻撃を受けたりしてしまう。拡散性が仇となり、結果満たそうとした承認欲求が不能に陥ってしまうのだ。

そのようなことはフィジカルな表現においても発生することではあるが、ヴァーチャルな世界での攻撃性は現実とは比べ物にならないほど高い。匿名性が人を凶暴にすることは言うまでもない。

SNS上で承認欲求を満たそうとすることは非常に危険な行為である。この「用法」に取り憑かれるとロクなことにならない。

最後に、これは俺の観測範囲内で全て当てはまる恐ろしい観測結果なのだが、SNSから距離を取り過ぎてしまった人々は、大方何かしらのズレを抱えた状態で、結局SNSに舞い戻ってくる(このズレというのは、世の中との思想的なズレであったり、単純な情勢に関する知識量のズレであったりさまざまである)。

恐らくヴァーチャルな社会関係から逸脱することで、思想や慣習的な面において世の中とずれが生じるようになるのではないかと思っている。宇宙に飛び立った飛行士が戻ってきた際に地球との時差を抱えて帰ってくるような、そんな状態になってSNSから離れた人々はSNSに戻ってくる。

容量をゼロにするとそういった事象が起きてしまう。俺はそれが怖くてなかなかSNSを完全に遮断することができずにいる。

ではどうすればいいのか?過去に友人の一人がSNSを使う時間を自分自身で制限していると言っていた。それも一つ面白い解答だと思った。

俺は、自分自身が何のためにSNSを使用しているのかを、もっと明確に意識することで適正な用法容量が分かるのでは?と思っている。

最後に、Twitterの持つドラッグ性に関して、他でもないTwitter上で菊地氏が発言した内容をまとめておきたい。氏のSNS、とりわけTwitterに対する視点には訓戒がある。以下のサマリーは菊地成孔氏が2021年2月いっぱいで閉鎖することを前提とした上で開設したアカウントでの発言に基づく。このサマリーは町山氏の炎上に関する案件と、ドナルド・トランプへの発言からTwitterに関する氏の発言を抽出し、俺が編み直したものであるため、いささか歪になってしまっていることに注意した上で読んでいただきたい。また、Twitterに関する発言の中で、炎上に関する町山氏の行動の分析に関しては俺の手に余るため、深く言及しない。

加えて、氏の発言に問題があるとする意見も多く、実際俺自身も氏の発言の全てを受容はできていない。支持も不支持もしかねた宙ぶらりんの困り顔でこの文章を打っていることも付け足しておく。申し訳ないが、今の俺には氏を糾弾できるほどのバイタリティはない。

Twitterにはドラッグとしての属性があるというのが以下の主旨である(斜体はツイートより引用部)。

彼は「ドラッグも、あまつさえ、それに対する依存も、人間が正気を保つのには必要不可欠である」と前置きした上で、「合法、非合法を問わず、ドラッグにはユーザーレベル、ハードユーザーレベル、アディクション・ペイシェントレベル、ジャンキーレベルと、階層がある」と述べる。Twitterの利用に関しても、用法容量によって階層が発生してくるのだ。

Twitterにある情報というのは無制限であるかの様に見えて、実際のところ、自分自身が得たい情報を恣意的に摂取しているに過ぎない(古くはどのアカウントをフォローし、どのようなタイムラインを構築するのか、といったところから情報の取捨選択は始まっている。最近だと導入されたトピックのフォロー、検索窓のジャンル検索なども取捨選択をよりスムーズに行えるようにする「改良」のひとつだ)。

菊地氏は「Twitterの<今を知ろう>というスローガンには悪弊があり、膨大な情報の塊である<今>の瀑布に飲み込まれると、視野は不可避的に狭窄になる」と警鐘を鳴らしている。つまり、自分の得たい情報だけを浴びることにより、自分の見ている世界が全てだと錯覚してしまうのだ(もしくは氏は、過去ー未来という視点を失ってしまうことも危惧しているのかもしれない)。この点に関しては昨今の陰謀論などの動きを見るとよく分かる点だろう。

そしてジャンキーレベルに至ると、Twitterにおける晒し上げによる炎上を企図したり(これには上記に述べた町山氏の行動の分析が関わってくるため、深追いしない)、ドナルド・トランプのような過激なツイートといった症状が発生してくる。自らの見ている世界の正義に支配され、それ以外の正義を駆逐しようというわけだ。

また、氏は飲酒、ギャンブルなどと同様、Twitterも「嗜む程度であれば大いに結構ですが、中毒を経てジャンキーに至ると、取り返しがつきません」と言う。上記の症状が発症した状態のことだ。この補足として、下記の発言が分かりやすい。

ツイッターは利用者に勝利の快感を与えません。「見たものに関して、何かを言いたい」という排泄(排泄を汚物として悪し様に言っているのではありません。排泄は重要な生理的欲求です)にも似た快感を与える代わりに、敗北感と不全感を常時与え続ける麻薬で、ギャンブルの構造に似ています

実質、炎上という現象は一過性で、言いたいことを言って焚き火に薪をくべた者たちは一定期間ののちに全く何事もなかったかのように日常の呟きの中に戻っていく。その様は一見一過性のものではある。しかしそれは内に中毒性を宿している。自分の巣に戻っている鳥は再び何かが燃える火花がないか、目をぎらつかせている。

そして、「Twitterには、Twitter外部に存在する、ルール、筋、倫理といったものを瓦解させる力がある」と述べる。

Twitter上で巻き上がった火の粉はTwitter内では完結せず、実際の社会にも飛び火するということだ。

氏がTwitterに乗り込んだのも、町山氏による炎上の一件が現実の菊地氏に「何でこんなことが起こったのだろうか?」という疑念を発生させ、町山氏との公開討論を要求する程度には影響を与えている(氏はアカウントでTwitterのユーザーを鳥に見立て、ヒッチコックの『鳥』におけるティッピ・ヒドレンのような目に遭った(これはティッピ・ヒドレン演じるメラニー・ダニエルズが、兎にも角にも鳥から襲撃を受け続ける様に擬えている)と発言している)ということである。

自らのSNSへの依存度に関して自覚的でなければ、いずれ敗北感と不全感に端を発する、快楽に飲まれた鳥の一羽となってしまうことは避けられない。