エアギターで腕が攣る

無題

1/18 15:50

実年齢より若く見られることが増えた。

正直なところ、全く嬉しくない。自分が重ねて来た年月へのプライドが俺にそう思わせていることは明白である。若く見られるということは、その年月が少なくとも外見(顔、声色、服装、態度といった一次情報)に反映されていないー他者から見て存在していないーということに他ならず、俺は俺の重ねた年月が正当に評価されていないかのように感じてしまっている。

俺よりひとつ年上で、同じく実年齢より若く見られることを嘆いていた大学時代の先輩は「年相応の風格を身につけられていないことへのバツの悪さ」といったことを言っていた気がする。

年相応の風格とは……。考え出すと迷宮入りしてしまいそうになる。年相応とは。風格とは。

仕事に関して考えてみると、俺は年齢の割にそれなりのポジションにいるため、逆に「思ったより若くて意外でした」と言われることの方が多い。仕事ではまずは肩書きが先行する。風格は文字通り肩書きが肩代わりしてくれている。

書いていくうちに気付いたが、若く見られるのは圧倒的にプライベートな場面が多い。要は肩書きがないプライベートにおいて、いかに風格を表現するのか、という話になってくるが、風格を表現するというのもこれまた妙な表現である。表現しなければいけない風格など所詮虚仮威しではないか。風格は滲み出してほしい、というのは求め過ぎか。

先にも書いたが、外見ないし風格は顔や声色、服装、態度など様々な要因から総合的に判断される。

そういった要因の中で、兎角仕事とプライベートで差があるのは服装である。俺は仕事柄スーツではなく私服で仕事をしているが、明確に“ハレとケ”を意識して、着る服を分けている。その服のハレの性質を守るために、意図的に仕事の場面では着ない、といったような具合で。俺にとっては休日こそがハレの場であり、仕事の場がケである。

もし俺のプライベートにおける風格というものが服装に端を発するとしても、生憎なところ俺は俺の服装をとても気に入っており、今のモードな路線を変更する気は毛頭ない。ゆくゆくは駅で見かけるヨウジやギャルソンを身に纏った粋な老人のようになりたいとさえ思っている。そして彼らは別段「若く見える」ということはない。降り重ねた味わい深い年月が確かにその外見にも見て取れる。だからこそ、例えばハイブランドに代表されるような金額的な障壁はあれど、服装に関して「年相応」などというものはないと思っている。どんな服を着るかではなく、どう着るか、誰が着るか、である。

俺は俺の服装を気に入っていると言ったが、恐らくまだ足りないものが多い。それは服に対して重ねた思考の量であり、重ねた時の澱であり、服の皺であり、撚れであり、その全てである。それらの符号が一致するまで走り続けるしかない。

顔や声色は残念ながら変えようがない。せめて髭でも生やせばそれなりになるのだろうか。以前に可能な限り髭を蓄えてみたことがあるが、どうにもちぐはぐで諦めた。態度はどうにかなるだろうか。可能な限り誠実で、謙虚で、落ち着いた物腰であるように務めているが。

考えても仕方がないようである。今若く見られているということを大人しく受け止め、プライドの方を身の丈に合わせるのが賢明だ。そのうち受け止める態度によって風格が滲み出てくる気もする。

人生を生きてきて、年を重ねれば重ねるほどに自分の中で芽生えたコンプレックスとひとつひとつ向き合い、自由になっていく過程を経てきたので、ここに来て新たなコンプレックスに苛まれていることに驚いている。まあいずれ自由になるだろうと気楽に構えられるのも年を取ったからこそか。

つらつらと書き連ね、ようやく諦めがついた。

ともあれ、重ねて来た年月が外見に染み出した、味わい深い存在になりたいという欲求には素直でいたい。

一方で、若々しく常に新鮮な気持ちで生きることを考え続けていたい、という欲求もある。重ねた年月の澱を精神が飛び越えるという躍動。もしその生命力が「若く見られる」所以になったとしたら、それはそれで悪くないのかもしれない。