エアギターで腕が攣る

無題

4/20 23:46

もう2ヶ月以上も前の話だが、ピアスホールを開けた。ピアスホールを開けることなんて俺の人生には無いだろうと思っていたが、そうしない確固たる理由があるわけでもなかったので、多少の理由さえあればさらりと傾くのも、考えてみれば当然である。

人にあげようと思っていたピアスを渡す機会が無くなり、せっかくなら自分でつけようか、と思い立った。思い立ったその日に皮膚科の診療を予約してホールを開けた。コンタクトレンズをつけてみようと思った時もそうだが、思い立ってからの行動が早い。現在地から身を動かしたい、と思った時の行動力にはしばしば自分でも驚かされる。

さて、自分自身に風穴が空いている、というのは妙な気分である。そもそも人体自体がひとつの大きな風穴とも言えるが、元々空いていなかった穴が空いている、というのが妙である。

古来より人間はイニシエーションとして入墨を施したり、歯を抜いたりと、自身の身体を改造する。恐らく、自身の身体という、最も身近で、最もピントが合わない存在に介入を試みる、ということに意味があるのだろう。それによって、アンタッチャブルなものへの接近を試みる。あるいは、自身の身体が介入可能なものであるとすることで、客観性を獲得する、といった意味もあるのかもしれない。イニシエーション、すなわち通過儀礼とはその社会の一員として認められるためー大人になるためーに行われるものである。大人とは客観性を成熟させた人間のことを指す。

複数ピアスホールを空けている知り合いに、なぜピアスを開けているのか?と質問をしたことがあるが、明確な答えは返ってこなかった。明確な答えがなかったことに少し安心もした。明確な答えがないくらいが丁度いいのだろう。もし上述したようなことを意識的に考えて身体に風穴を開けているのだとしたら、それはずいぶん酔狂なことである。

余談として、以前髪を伸ばし始めた時にも感じたことだが、ピアスホールを開けたことによって自身の身体に対しての視点が増えた。

髪を伸ばした時は、髪が肩に触れるという触覚的な追加事項に加えて、トリートメントをしたり、ヘアオイルを使ったりといった、生活におけるメンテナンスという所作の追加事項が増えて、より自分自身に目を向ける機会が増えた。以前どこかで男性はセルフケアに関する意識が女性に比べて低い(これは優劣の話ではなく、単純にライフスタイルや社会的立場からセルフケアの機会に恵まれない、といった文化的差異の話である)という話を聞いたことがあり、その時はイマイチピンときていなかったのだが、ヘアケアという視点を獲得したことで、その話が幾分か立体的に感じられた。

今回自分に風穴が開いたことで、入浴した際や、メガネをかける時など、日常の仕草においてピアスの存在を気に掛けるという事項が増えた。これを面倒だと思うか否かは人によりけり、状況によりけりだと思うが、少なくとも俺は今のところ面白みを感じている。これは新たな客観性を得たことに対する面白み、今までいた場所から自らを移動させたことによって発生した新たな視界に対する面白みである。

 

 

 

無題

4/1 13:09

先日(といっても3月の半ば頃だが)コンタクトレンズを初めて装用した。コンタクトをつけることを「装用」と表現することも、眼科に行って初めて知った。装用は読んで字の如く、取り付けて用いることを指す。

眼鏡をかけ始めた高校生の時分より、眼鏡過激派である俺は、これまでコンタクトレンズに対してさほど魅力を感じたことがなかったのだが、先日仕事が終わらず、カーシェアを利用して車で帰宅した際、眼鏡の度がいよいよ合っていないのと、労働による疲れから、道路標識をほとんど認識することができないという状況に陥った。全てがぼやけた世界の中で、動くものと色だけを頼りに逆ワイルドスピード帰宅をしたことでようやく危機感を覚えた。どうにかしないとそのうち車ごとスクラップになってしまう。

とはいえ眼鏡の度をこれ以上上げるとレンズの歪みによって眼精疲労が悪化することは目に見えているし、コンタクトレンズを常用するのはただただ面倒である。しょっちゅう眼鏡をかけたまま寝落ちしている俺にコンタクトレンズを毎晩外すなどという芸当ができるわけもない。

そんなわけで折衷案として、運転する時やオシャレの一環として利用したいときだけコンタクトレンズを装用し、それ以外の場面では今までの眼鏡を使用するのが最適解なのではないかという結論に至った。

考えがまとまれば後は早い。翌日には眼科に行き、視力検査をして装用の指南を受けた。

最初に眼科のスタッフの方が装用を手伝ってくれたが、他人に目の付近を触られると無意識に身体が強張ってしまい、まったくレンズが入らなかった。

早い段階で自分で装用しても構わないかと打診したが丁重に断られたため、そこから30分近く格闘していただくこととなり、ついに痺れを切らしたスタッフの方に自分で装用する許可をもらい挑んだところ、ものの数分でスッと装着できた。

一方でレンズを外すのには相当に手こずった。装用する時点で他の人に触れられてああなっていたのだから、外すとなったら尚更である。自分ではかなり勇気を出して外そうとしているつもりだったが、側から見ればうっすらと目の側面をなぞっている程度とのことで、耳と目を疑った。

「白目を押し込むくらいのイメージでレンズをつまんで外してください」と言われ、更に耳と目を疑いながら、失明も辞さない気持ちで勇んでつまんだところ、格闘を開始してから更に30分弱後にようやく外すことができた。俺もスタッフの方も疲労困憊である。

達成感もひとしお、帰り際に寄ったお手洗いで鏡を見たところ、長年連れ添った眼鏡がない自分の顔面の情報量の少なさに腰を抜かしてしまい、そのまま這いつくばるように眼鏡屋に駆け込んだ。真っ青な顔で今持っている眼鏡を度無しにしたいのだが可能か、と店員に相談したところ、店員は俺の異常な様子に一瞬面食らったのち、「レンズを変えるよりも新しいものを買ってしまった方が安い」と、さっと狼狽した表情をセールスの表情に切り替えた。その時持ち合わせていた眼鏡にはさほど執着も無かったので、言われるがままに店内で気になる眼鏡を選び、結局レンズを変える値段の3倍近い値段の眼鏡を買った。安物買いの銭失いをひどく恐れる俺はいつもこんなことばかりしている気がする。

さて、実際使ってみると、コンタクトレンズ、かなり便利である。

装用に慣れないため準備に時間がかかるのが珠に瑕だが、視界の歪みが発生しないのと、眼鏡の掛け替えに自由が増したことで、よりオシャレがしやすくなった。

今回コンタクトレンズを装用するに至ったきっかけは逆ワイルドスピード事件だったが、最近は自分をアップデートしたい機運も高まっており、そういった意味でも自分の可能性を拡げるいい一歩になった。

無題

1/18 15:50

実年齢より若く見られることが増えた。

正直なところ、全く嬉しくない。自分が重ねて来た年月へのプライドが俺にそう思わせていることは明白である。若く見られるということは、その年月が少なくとも外見(顔、声色、服装、態度といった一次情報)に反映されていないー他者から見て存在していないーということに他ならず、俺は俺の重ねた年月が正当に評価されていないかのように感じてしまっている。

俺よりひとつ年上で、同じく実年齢より若く見られることを嘆いていた大学時代の先輩は「年相応の風格を身につけられていないことへのバツの悪さ」といったことを言っていた気がする。

年相応の風格とは……。考え出すと迷宮入りしてしまいそうになる。年相応とは。風格とは。

仕事に関して考えてみると、俺は年齢の割にそれなりのポジションにいるため、逆に「思ったより若くて意外でした」と言われることの方が多い。仕事ではまずは肩書きが先行する。風格は文字通り肩書きが肩代わりしてくれている。

書いていくうちに気付いたが、若く見られるのは圧倒的にプライベートな場面が多い。要は肩書きがないプライベートにおいて、いかに風格を表現するのか、という話になってくるが、風格を表現するというのもこれまた妙な表現である。表現しなければいけない風格など所詮虚仮威しではないか。風格は滲み出してほしい、というのは求め過ぎか。

先にも書いたが、外見ないし風格は顔や声色、服装、態度など様々な要因から総合的に判断される。

そういった要因の中で、兎角仕事とプライベートで差があるのは服装である。俺は仕事柄スーツではなく私服で仕事をしているが、明確に“ハレとケ”を意識して、着る服を分けている。その服のハレの性質を守るために、意図的に仕事の場面では着ない、といったような具合で。俺にとっては休日こそがハレの場であり、仕事の場がケである。

もし俺のプライベートにおける風格というものが服装に端を発するとしても、生憎なところ俺は俺の服装をとても気に入っており、今のモードな路線を変更する気は毛頭ない。ゆくゆくは駅で見かけるヨウジやギャルソンを身に纏った粋な老人のようになりたいとさえ思っている。そして彼らは別段「若く見える」ということはない。降り重ねた味わい深い年月が確かにその外見にも見て取れる。だからこそ、例えばハイブランドに代表されるような金額的な障壁はあれど、服装に関して「年相応」などというものはないと思っている。どんな服を着るかではなく、どう着るか、誰が着るか、である。

俺は俺の服装を気に入っていると言ったが、恐らくまだ足りないものが多い。それは服に対して重ねた思考の量であり、重ねた時の澱であり、服の皺であり、撚れであり、その全てである。それらの符号が一致するまで走り続けるしかない。

顔や声色は残念ながら変えようがない。せめて髭でも生やせばそれなりになるのだろうか。以前に可能な限り髭を蓄えてみたことがあるが、どうにもちぐはぐで諦めた。態度はどうにかなるだろうか。可能な限り誠実で、謙虚で、落ち着いた物腰であるように務めているが。

考えても仕方がないようである。今若く見られているということを大人しく受け止め、プライドの方を身の丈に合わせるのが賢明だ。そのうち受け止める態度によって風格が滲み出てくる気もする。

人生を生きてきて、年を重ねれば重ねるほどに自分の中で芽生えたコンプレックスとひとつひとつ向き合い、自由になっていく過程を経てきたので、ここに来て新たなコンプレックスに苛まれていることに驚いている。まあいずれ自由になるだろうと気楽に構えられるのも年を取ったからこそか。

つらつらと書き連ね、ようやく諦めがついた。

ともあれ、重ねて来た年月が外見に染み出した、味わい深い存在になりたいという欲求には素直でいたい。

一方で、若々しく常に新鮮な気持ちで生きることを考え続けていたい、という欲求もある。重ねた年月の澱を精神が飛び越えるという躍動。もしその生命力が「若く見られる」所以になったとしたら、それはそれで悪くないのかもしれない。

無題(Archive 2021)

2/12 19:07

先日のゲンロンカフェにて、菊地成孔が「軽やかに生きる為の処世術は?」という質問に対し、

SNSをしないこととカラダを動かすこと」

と答えたらしい。

直近の某騒動以前より氏のSNS嫌いは有名で、さもありなんといったところだ。

さて、この話を書こうと思ったのは、彼と町山氏の一連の騒動に関してここで深く言及したい訳ではなくて、SNSの使用について、広く自分自身の思うところを一度文章化しておきたいと思ったからである(あとはここ最近寝てばかりの休日に少しでも生産性を見出したいというある種の切迫も絡んでいる)。

というのも、昨今のSNSで日夜巻き起こる炎上案件や、バズ、その他SNS上で発生する凡ゆるヴァーチャルなコミュニケーションにかなり疲弊していることから、自分自身がある種のオーヴァードーズ状態に陥っていると感じるため、まずは自分自身のSNSに関しての所感をまとめ、然るべき対応を考え出したいのだ。限界が来る前に予防線を張っておきたい。そして何よりこうして文章を紡いでいる間は精神が安定する。

まず、SNSをすべきか否か?という点に関してだが、これは「用法容量」を守れば問題ないと思っている。ただ、この「用法容量」というのが非常に厄介で、というか、SNSにまつわる問題のほとんど全てがこの「用法容量」というワードに集約されてしまうような気がしている。

SNSの連続性ー止めどなく誰かが何かを発信しており、それを無制限に享受できてしまうというシステムーは俺からSNSの「やめ時」を奪い去る。

身体や精神の疲労が「やめ時」というよりも「限界」を感じ始めて、ようやくSNSから離脱するというのが常だが、そんな時には既に、眼精疲労、肩こり、そして「時間を浪費してしまった」という自己嫌悪に陥っており、心身ともに不健全な状態となってしまっている。

だが、「そんなに心身をやつすのであれば、SNSなどキッパリやめてしまえばいいではないか」という意見は極論すぎる。「用法」の問題が絡んでくるからだ。既に現代においてSNS上でのコミュニケーションは社会関係の構築の上で重要なファクターとなっているし、SNSに接続することで得られる恩恵というものも決して少なくない。

多感な時期にSNSが身近にあった世代ならよく分かると思うのだが、SNSに接続する術を持ち合わせていない時の交友関係の構築のことを考えてみてほしい。

学校というクローズドな世界においてコミュニケーションの機会の喪失がどれだけ焦燥感を煽るかは、想像に難くないだろう。

バーチャルなコミュニケーションとフィジカルなコミュニケーションというのは択一のものではなくなっている。どちらも必要不可欠なものだ。

また、SNSの即時性と拡散性は、世の中で起こっている情報を素早く、かつ広範囲から引き寄せることができるし、それによって社会の動きを曲がりなりにも知覚することができる(接続先によってこの社会の動きの知覚の仕方はいくらでも歪んでしまうので、かなりの注意が必要ではある)。

SNSにおける承認欲求の話にも触れておきたい。承認欲求の充足に関しても「用法」を間違えると悲惨な目に遭う。

手軽に世界に向けて自分自身の表現を発信できるSNSは、承認欲求を満たすのにあまりにもお誂え向けなサービスである(Twitterで一時期流行った「質問箱」というサービスはその最たるものだと思う。あの存在を知った時は、ここまでSNS使用者の快楽中枢にダイレクトに働きかけるものをよく作ったものだと感心した)。

手軽に多くの人に向けて表現を発信できる分、適切な人たちに適切な量の表現を渡していく、ということが非常に難しくなるのが問題で、自分自身の趣味嗜好と近しい人たちに自分の表現を発信することは何ら問題ないが、全く趣味嗜好が合わない人にとっては、その表現は不快なノイズでしかなかったりする。

そうしてその表現を不快だと感じた人達から攻撃を受けたりしてしまう。拡散性が仇となり、結果満たそうとした承認欲求が不能に陥ってしまうのだ。

そのようなことはフィジカルな表現においても発生することではあるが、ヴァーチャルな世界での攻撃性は現実とは比べ物にならないほど高い。匿名性が人を凶暴にすることは言うまでもない。

SNS上で承認欲求を満たそうとすることは非常に危険な行為である。この「用法」に取り憑かれるとロクなことにならない。

最後に、これは俺の観測範囲内で全て当てはまる恐ろしい観測結果なのだが、SNSから距離を取り過ぎてしまった人々は、大方何かしらのズレを抱えた状態で、結局SNSに舞い戻ってくる(このズレというのは、世の中との思想的なズレであったり、単純な情勢に関する知識量のズレであったりさまざまである)。

恐らくヴァーチャルな社会関係から逸脱することで、思想や慣習的な面において世の中とずれが生じるようになるのではないかと思っている。宇宙に飛び立った飛行士が戻ってきた際に地球との時差を抱えて帰ってくるような、そんな状態になってSNSから離れた人々はSNSに戻ってくる。

容量をゼロにするとそういった事象が起きてしまう。俺はそれが怖くてなかなかSNSを完全に遮断することができずにいる。

ではどうすればいいのか?過去に友人の一人がSNSを使う時間を自分自身で制限していると言っていた。それも一つ面白い解答だと思った。

俺は、自分自身が何のためにSNSを使用しているのかを、もっと明確に意識することで適正な用法容量が分かるのでは?と思っている。

最後に、Twitterの持つドラッグ性に関して、他でもないTwitter上で菊地氏が発言した内容をまとめておきたい。氏のSNS、とりわけTwitterに対する視点には訓戒がある。以下のサマリーは菊地成孔氏が2021年2月いっぱいで閉鎖することを前提とした上で開設したアカウントでの発言に基づく。このサマリーは町山氏の炎上に関する案件と、ドナルド・トランプへの発言からTwitterに関する氏の発言を抽出し、俺が編み直したものであるため、いささか歪になってしまっていることに注意した上で読んでいただきたい。また、Twitterに関する発言の中で、炎上に関する町山氏の行動の分析に関しては俺の手に余るため、深く言及しない。

加えて、氏の発言に問題があるとする意見も多く、実際俺自身も氏の発言の全てを受容はできていない。支持も不支持もしかねた宙ぶらりんの困り顔でこの文章を打っていることも付け足しておく。申し訳ないが、今の俺には氏を糾弾できるほどのバイタリティはない。

Twitterにはドラッグとしての属性があるというのが以下の主旨である(斜体はツイートより引用部)。

彼は「ドラッグも、あまつさえ、それに対する依存も、人間が正気を保つのには必要不可欠である」と前置きした上で、「合法、非合法を問わず、ドラッグにはユーザーレベル、ハードユーザーレベル、アディクション・ペイシェントレベル、ジャンキーレベルと、階層がある」と述べる。Twitterの利用に関しても、用法容量によって階層が発生してくるのだ。

Twitterにある情報というのは無制限であるかの様に見えて、実際のところ、自分自身が得たい情報を恣意的に摂取しているに過ぎない(古くはどのアカウントをフォローし、どのようなタイムラインを構築するのか、といったところから情報の取捨選択は始まっている。最近だと導入されたトピックのフォロー、検索窓のジャンル検索なども取捨選択をよりスムーズに行えるようにする「改良」のひとつだ)。

菊地氏は「Twitterの<今を知ろう>というスローガンには悪弊があり、膨大な情報の塊である<今>の瀑布に飲み込まれると、視野は不可避的に狭窄になる」と警鐘を鳴らしている。つまり、自分の得たい情報だけを浴びることにより、自分の見ている世界が全てだと錯覚してしまうのだ(もしくは氏は、過去ー未来という視点を失ってしまうことも危惧しているのかもしれない)。この点に関しては昨今の陰謀論などの動きを見るとよく分かる点だろう。

そしてジャンキーレベルに至ると、Twitterにおける晒し上げによる炎上を企図したり(これには上記に述べた町山氏の行動の分析が関わってくるため、深追いしない)、ドナルド・トランプのような過激なツイートといった症状が発生してくる。自らの見ている世界の正義に支配され、それ以外の正義を駆逐しようというわけだ。

また、氏は飲酒、ギャンブルなどと同様、Twitterも「嗜む程度であれば大いに結構ですが、中毒を経てジャンキーに至ると、取り返しがつきません」と言う。上記の症状が発症した状態のことだ。この補足として、下記の発言が分かりやすい。

ツイッターは利用者に勝利の快感を与えません。「見たものに関して、何かを言いたい」という排泄(排泄を汚物として悪し様に言っているのではありません。排泄は重要な生理的欲求です)にも似た快感を与える代わりに、敗北感と不全感を常時与え続ける麻薬で、ギャンブルの構造に似ています

実質、炎上という現象は一過性で、言いたいことを言って焚き火に薪をくべた者たちは一定期間ののちに全く何事もなかったかのように日常の呟きの中に戻っていく。その様は一見一過性のものではある。しかしそれは内に中毒性を宿している。自分の巣に戻っている鳥は再び何かが燃える火花がないか、目をぎらつかせている。

そして、「Twitterには、Twitter外部に存在する、ルール、筋、倫理といったものを瓦解させる力がある」と述べる。

Twitter上で巻き上がった火の粉はTwitter内では完結せず、実際の社会にも飛び火するということだ。

氏がTwitterに乗り込んだのも、町山氏による炎上の一件が現実の菊地氏に「何でこんなことが起こったのだろうか?」という疑念を発生させ、町山氏との公開討論を要求する程度には影響を与えている(氏はアカウントでTwitterのユーザーを鳥に見立て、ヒッチコックの『鳥』におけるティッピ・ヒドレンのような目に遭った(これはティッピ・ヒドレン演じるメラニー・ダニエルズが、兎にも角にも鳥から襲撃を受け続ける様に擬えている)と発言している)ということである。

自らのSNSへの依存度に関して自覚的でなければ、いずれ敗北感と不全感に端を発する、快楽に飲まれた鳥の一羽となってしまうことは避けられない。

アメリカン・ユートピア(Archive 2022)

6/9 13:58

‎American Utopia on Broadway (Original Cast Recording Live) - デイヴィッド・バーンのアルバム - Apple Music

映画『アメリカン・ユートピア』が良すぎたという話をする。

普段から森羅万象に対して思ったことを口から何から出し続けているが、こと今回観たアメリカン・ユートピアに関してはもう熱が冷めやらぬうちにどうにかしてこの感動をしたためておきたくて仕方がなかったため、一緒に映画を観た先輩と帰路熱弁し、別れ際に硬い握手をしてもなお収まらぬこの胸の内を開陳したいと思う。

5月の下旬から公開されていたものの、緊急事態宣言により私が住んでいる大阪では映画館が休業に追いやられてしまい、鑑賞の機会を逃し続けていた。今回ようやくの鑑賞であった。

デヴィッド ・バーンがトーキングヘッズを74年に結成し、3年後に『Psycho Killer』をリリースしたことを考えると、彼が音楽家として世に出てから実に半世紀近くが経とうとしているわけだが、その時から現在に至るまで、彼のクリエイティビティとパフォーマンス能力は一切の衰えを見せるどころか、恐ろしい程に磨きがかかり続けていたらしい。2時間近いショウを、全くへばることなくフルパワーでパフォーマンス-歌うだけではなく、踊り、ギターを弾き、パーカッションを打ち鳴らすのだから大したものだ-し続けるバイタリティはもちろん、このショウの楽曲のほぼ全てを作り出したのはもちろん、ステージの構想を練ったのもデヴィッド ・バーン本人だというのだから、天晴れという外ない。

トーキングヘッズ直系のニューウェーブサウンドが根底にありつつも、アフロビートをふんだんに取り入れたパーカッションセクションの充実っぷりと、アンビエントを通過したことを如実に知らせる、原音をカットし、リバーブ音のみを出力したようなギターサウンド、メタルを彷彿とさせるローの効いたベースとギターのブリッジミュート、そしてR&Bシンガーであるジャネール・モネイの『Hell You Talmbout』のカヴァーまで飛び出す(なんとデヴィッド ・バーン自身が本人に直々にカヴァーの許可を得たらしい)という、余りにも広範なジャンルの横断。

更にはアンビエントミュージックの先駆者、ブライアン・イーノがデヴィッド ・バーンにダダイズムの作家/詩人であるフーゴ・バルの詩を曲にすることを勧めたことでできたというトーキング・ヘッズ時代の楽曲『I Zimbra』をはじめ、『Once In A Lifetime』『Burning Down The House』など、『American Utopia』収録の楽曲以外からも新旧問わないタイムレスな楽曲が次々と繰り出されるといった、ファンも歓喜のセットリスト。そしてそれを強烈なあるプロテストにより、一つの一貫した方向性をもって打ち出し、まとめ上げる手腕に脱帽である。非常に興味深いのは、数十年も前の曲でありながら、現在もアメリカに根深く存在する諸問題-今作では特にBLMにフォーカスされている-とリアルタイムに呼応し、決して過去の再生としてではなく、現在に鳴るべき音楽として存在していることだ。

人種差別によって亡くなった死者の名前を滔々とあげ、”Say his (or her) name.”と叫び続ける『Hell You Talmbout』は2015年にSound Cloudにアップされて以降、オフィシャルなリリースは一切されていない楽曲だ。

今回のステージ・バンドはフランス、ブラジル、カナダなど多国籍のミュージシャンが参加したるつぼのような顔ぶれである。かくいうデヴィッド・バーンスコットランドから帰化しているという意味では、アメリカにルーツを持たないミュージシャンである。

そのようなバックグランドを持って鳴らされる音は、確かに今まさにアメリカに存在する諸問題と相対し続ける者が発するのであるから、現在にひどく切迫したものになることは当然である。そのような意味でも、この作品は決して懐古的なベクトルで消費されるべきではないだろう。

そしてトーキングヘッズ時代から常に時代を見つめ、自身の中で自問自答を繰り返してきたデヴィッド ・バーンの哲学も色褪せることなく、未だ語られ続けるべき問いかけとして我々の前に新鮮な響きをもって立ち現れる。これは驚異的なことである。そしてそれらは時にシニカルに、時に直截的に、素晴らしい音楽と共に発せられる。

上述の圧倒的なパフォーマンスが繰り広げられるステージは、天井から吊るされる鎖以外には何も存在しない。不要なものを限界まで削ぎ落としたセットになっている。人間以外に注目すべきものが一切としてないのだ。

一般的なコンサートでは当たり前の、地を這う楽器のケーブル類なども全てワイヤレスのものを使用し、一掃されているだけでなく、出演者の衣装もグレーのスーツで統一されているという徹底ぶりだ。

「一番興味深いのは他の人間」

「人間を観察することはなんて面白いのでしょう」

というデヴィッド ・バーンの言葉はショウの中でジョーク混じりに語られるが、あくまで人間以外に注意を向けさせないための上記のような環境作りが徹底していることから、この言葉が狂気的なまでに切実さを伴った本心であることがよく分かる。事実、鑑賞していて、パフォーマーたちの微細な身体の揺めきや、鳴らされる音の細やかなニュアンスまでが観る者に肉薄してくる。徹底的に不要なものを削ぎ落とした結果、熱いコアだけが剥き出しになった作品だ。音楽も映像もメッセージも全てが生命力に漲っている。

最後に。デヴィッド ・バーンは公演の間、折に触れて、我々の政治について、皮肉を交えつつも、あくまで真摯に、観る者に問いかける。

地方の投票者数の平均は20%ほどであること、2018年の大統領選の投票者の平均年齢が57歳であることを。そして投票に行くことを呼びかける

極東の島国に生きるひとりの若者である私も、ひとりの生活者として、諦観にまみれて地を這い、生命力を流出させることに甘んじていてはならないと感じた。スクリーンの前でこれほどまでに強烈なメッセージとエネルギーを投げかける男がいると知って、安穏とニヒリズムに傾倒している暇はない。

2023年ナイスアルバム

今年の良かったアルバムをまとめました。Apple MusicのReplay機能で確認したところ、今年は4299曲、784枚のアルバムを聴いたらしい。曲数は去年より微増。枚数は減。

2023年にリリースされたオリジナルアルバム、EPが対象。過去のアーカイブは下記より(Tumblrのため、途中でアカウント登録を促される最悪な仕様)。

何気に今年でこのまとめを作成し始めてから10年目になりました。高校生から続けていると思うと随分酔狂なものだと思う反面、えらいものだなとも。10年も続いていることなんて人生でそうそうない。

sekitoh on Tumblr

各アルバムから一曲ずつ選んだプレイリストはこちらから。聴きながら読んでいただくとより楽しめるはずです(大林武司“TBN”トリオはサブスク未解禁のため未収録)。

◾️Apple Music

‎FoolishSaItoの2023年ナイスアルバム - Apple Music

◾️Spotify

2023年ナイスアルバム - playlist by FoolishSaIto | Spotify


邦洋関係なく、リリース日でソートしています。

 

1/18 ジョナゴールド/WEEKEND

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元りんご娘メンバー、ジョナゴールドのソロアルバム。歌が上手い、声が良い、曲がいい。三拍子揃っている王道のポップ・アルバム。おかもとえみ作曲「WAVY BABY」はグルーヴィなトラックと淡いシンセとギターのウワモノが彼女のハリのありつつも優しく伸びやかな歌声にマッチした良曲。

 

2/10 Kelela/Raven

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R&BシンガーKelelaの2ndアルバム。本年リリースのPinkpantheressのアルバムにも客演しており、シーンの活気を感じる。実際「Happy Ending」は2ステップガラージ的だし、シナジーを感じずにはいられない。Pinkpantheressはシルキーでキュートなヴォーカルとドラムンベースを基調にしているが、KelelaはよりハスキーでスムースR&B的なニュアンスを感じる。加えて「On the Run」ではクラブミュージックへの接近も予感させる。余談だが、水面顔出しジャケットの流行りは一体どこまで続くのか。

 

3/2 みぃなとルーチ/Waiting for the moon to rise

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さよならポニーテールのメンバー、みぃなによるソロプロジェクトの2ndアルバム。牧歌的で伸びやかな歌声が何よりの魅力。フォーキーなポップソングから、ポエトリーリーディングを交えた変則的な楽曲まで、彼女の歌と詞を中心に編まれた8曲はどれも耳馴染みがよく、良質。「花の冠」でのマラドーナを想起させる詞は、まるで自分が広いコートに立っている様を幻視するかのよう。ジャケットを手がける我喜屋氏のアートワークも秀逸。

 

3/22 Qoodow/水槽から - EP

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2021年結成の大阪の4人組バンド。メンバーによるセルフレコーディング作品。オルタナサイケデリックシューゲイザーのフィーリングを中心としたサウンド感。君島大空が好きな人にはど真ん中で刺さりそう。通奏低音として存在するメロウさ、哀愁がたまらない。特に気に入ったのは「エスパー通り」。ノイジーさとめくるめく展開、気怠いヴォーカル、イカれたギタープレイがこれまたたまらない。

 

4/12 Apes/PUR

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羊文学も所属する(株)次世代のオーディションでグランプリを獲得した東京のスリーピースバンド。American Footballを彷彿とするクリーンなギターアルペジオによるイントロ「PUR」、骨太なロックサウンドが響くアンセムStay Alive」、エモ・マスロックと通過した「Wake me up!」など、オルタナティブ好きにはたまらない一枚。

 

4/19 Fenne Lily/Big Picture

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英のフォークSSW。デッド・オーシャンズからのリリース。3rdアルバム。プレーンなサウンドと遊び心。心を優しく解きほぐしてくれるウォームなヴォーカル。通底する哀しみ。それを超える愛。仕事の休憩中、机に突っ伏している時に一番よく聴いた一枚。シンプルなドラムとベースラインの美しさが際立つ「Pick」が特に気に入っている。

 

4/21 Alfa Mist/Variables

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イースト・ロンドン出身のピアニスト・プロデューサーによる5枚目のアルバム。トム・ミッシュ、ジョーダン・ラカイ、ユセフ・デイズといった気鋭のミュージシャン達との共演はもちろん、『Antiphon』をはじめ、自身のソロ作品も大きく注目を集めている。今作もジャズの垣根などとっくのとうに軽く飛び越え、彼のルーツであるヒップホップから、アフロビート的アレンジ、そしてジェイミー・リーミングのプレイが印象的なリードトラック「Variables」など、多種多様な楽曲が聴ける。

 

4/19 ExWHYZ/xANADU

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アイドルカルチャーとクラブミュージックの交差点の現在地。今年一番再生回数の多かったアルバム。WACKのグループとしては異色なクラブミュージックに傾倒した楽曲が8割を占めている。昨今のライブではPorter Robinsonの「Something Comforting」や、楽曲提供を受けている大沢伸一の「Our Song」もカヴァーしており、アイドルファンをむしろ置き去りにしかねないほどの尖りっぷり。今作も大沢伸一だけでなく、80KIDZ山田健人ケンモチヒデフミなど名だたるミュージシャンらによる楽曲が揃っている。メインヴォーカルのmayuとmahoの相反する個性のヴォーカルラインが決して楽曲に負けない強度を誇っており、グループとしてのアイデンティティを保持しているのもクール。

 

5/9 People In The Box/Camera Obscura

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前作でのピアノをメインにした楽曲から一転、改めてギターの可能性の追求に回帰したような印象。彼らは現状新作に関してはCDを全国流通で取り扱うことをやめているため、CDはアーティストのサイトより直接買う必要がある。CDが届いて緊張しながら、自宅のオーディオプレーヤーでCDを再生した瞬間のことをよく覚えている。なまじっか自分の血肉となっているほどに好きなアーティストの新譜を聴く時はいつでも身が引き裂かれる可能性を想起してしまい、身体がこわばる。1曲目の「DPPLGNGR」のイントロでのシンセギターとヴォーカルによる1分25秒間という昨今のポップミュージックではそうそうない贅沢な時間によってジリジリと高められた緊張が、次の瞬間に蠢くバンドアンサンブルの轟音で一気に決壊した瞬間、こわばった身体は熱を持って解放され、今回も彼らの作ったアルバムが傑作に違いないことへの喜びでいっぱいになった。

 

5/12 Yazmin Lacey/Voice Notes

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今年来日公演があったことも記憶に新しい、イースト・ロンドン出身のネオソウルシンガーによる1stアルバム。スムースR&B, JAZZをローファイさでラッピングしたかのようなサウンド。ジャイルズ・ピーターソンによるフックアップも記憶に新しい。レゲエ的なグルーヴとスウィートR&Bのマリアージュが心地よい「From A Lover」が特にお気に入り。Alfa MistやOscar Jeromeをはじめ、この界隈の音楽はいつでも新しい発見や興奮に満ちていてとても楽しい……。

 

5/24 cero/ e o

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今年、音楽好きたちが全員聴いていたと言っても過言ではないような一枚。シティポップサウンドからの離脱、よりアンビエントアヴァンギャルドな方面に船を進めた一枚。リリース直後は難解すぎるという声と絶賛の声が入り乱れていた印象。楽器と詩とメロディのバランスがあまりにも美しい。この作品を深く深く掘り下げたレビューはごまんとあるので、解釈に困ったらそれらを参照してみるのもよいが、とにかく小難しいことは一旦考えず、音を聴くということの快楽に向き合うだけで答えはそこにあると思う。

 

5/31 omeme tenten/2020 - EP

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2022年結成の東京の4人組ロックバンド。ヴォーカルが飛び抜けてよく、今年かなり聴き込んだ一枚。ジュディマリ的な爆発感のあるヴォーカルとバンドアンサンブル。普段ほとんど歌詞が入ってこない自分にしては、珍しく歌詞がスッと耳に入ってくる。「From East」の「まるで君は踊り場で初めて見たようにわーっと褒めたりなんかした」という歌い出しから、「ブランドスキニー汚せない 前髪伸ばした私のプリンセス」という歌詞が「ブランドスキニー着こなせない 前髪を上げた私のプリンセス」に変わっていくといった歌詞の言葉選びも絶妙。表題曲の「2020」もふくよかなリバーブの効いたオルタナティブなギターとヴォーカルが心地よい良曲。今年の日本のインディーズバンドの作品で一番良かった。

 

6/2 大林武司“TBN”トリオ/THE BIG NEWS

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MISIAのツアーにも帯同していたピアニスト大林武司を筆頭に、ベーシストはロバート・グラスパーパット・メセニーら名だたる巨匠達との演奏も印象的なベン・ウィリアムス、そしてドラムスには現行ジャズ・シーン最高峰のプレイヤー、ネイト・スミスを迎えたドリームチームによるスペシャル・アルバム。本名義でのリリースは今作が初めてだが、このメンバーでの初演はコロナ禍前の2019年「Blue Note at Sea」に遡る。2023年にビルボードでのライヴを観に行ったが、各人の超絶なプレイングはもちろん、3人のソウルフルネスっぷりに観客のボルテージも最高潮といった具合で、ここ数年観たライヴの中でも屈指の演奏だったことを記憶している。スタンダードなジャズから、Kenny Dorham「La Mesha」のカヴァー、変拍子が心地よい「Stepfar 2feel」、最後のエピローグはローファイヒップホップ的なニュアンスが目新しい「Bop Boom」など、遊び心にも溢れた一枚。ちなみにストリーミングは解禁されていない。ぜひCDを買って聴いてほしい。

 

6/28 Cornelius/夢中夢 -DREAM IN DREAM-

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コーネリアス7枚目のソロアルバム。前作『Mellow Waves』からの流れを引き継ぐ、ミニマル〜アンビエントを行き来する作風だが、より血の通ったサウンドと無機質さのせめぎ合いを強く感じる。シンセベースとキレのあるギターリフ、自らの傷をさするような歌詞が、無機質なサウンドによってむしろ際立つ「火花」、ギターリフの繰り返しが心地よい「Too Pure」、アンビエンスな霧にまかれる「霧中夢」などが特に印象的。

京都にて開催されたAMBIENT KYOTOでは上述の楽曲のうち、「Too Pure」と「霧中夢」がインスタレーションとして展示されていた。展示に行った際の感想は下記の記事に書き留めているが、よりこの作品を深く、多角的に味わうことができた。

無題 -

 

7/12 SAGOSAID/Tough Love Therapy

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今年聴いたジャパニーズ・オルタナティブの中でも指折りで良かった。海外ならBeabadoobeeを筆頭に、日本ならラブリーサマーちゃんらをはじめとした90‘s〜00’sオルタナティブリバイバル的文脈のサウンド。個人的にはTommy heavenly6のポップネスのあるグランジオルタナティブ性に通ずるものを感じて気に入っていた一枚。

 

7/14 Blake Mills/Jelly Road

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カリフォルニアを中心に活動するギタリスト/プロデューサー、Blake Millsによるソロ5枚目のアルバム。Alabama Shakes, Lana Del Ray, Fiona Appleなどのプロデュースも手掛けており、その手腕を知る人も多いが、ギタリストとしてもエリック・クラプトンの主催するクロスロードフェスに出演経験があるほか、ノラ・ジョーンズのサポートギタリストを務めるなど折り紙付きの実力である。今作はカントリー/フォークを中心にしながら、彼自慢の立体的かつ唯一無二のサウンドプロダクションを存分に味わうことができる。リードトラック「Jelly Road」でのギターと木管楽器の交錯するサウンドは上述の個性を象徴するような一曲。

 

8/9 KOTONOHOUSE/moeǝɯo

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今年のベストハイパー・カワイイ・ポップ。フューチャーベース、インターネットミュージックが好きな音楽ファンであれば、「え アタシ!?」のサウンドロゴは一度は耳にしたことがあるはず。今や世界を駆ける日本のトラックメイカー/DJ、KOTONOHOUSEによる2ndアルバム。今作もフューチャー・ベース、ハイパー・ポップを基軸に、4s4kiやrinahamu、PURE 100%といった国内外問わず共鳴する客演を招いた意欲作。PURE 100%との共同クレジットである大アンセム「New ambience」は後半で突如投入されるギターリフが全てを掻っ攫っていってくれる。最高。

 

8/18 Cautious Clay/KARPEH

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ジャズ・R&B SSW, プロデューサー Cautious Clayの2ndアルバム。アルバムのタイトルであるKARPEHはCautious Clayの本名ジョシュア・カルぺから。ネオソウル/ジャズのフォーマットにありつつ、「The Tide Is My Witness」ではテクニカルなドラムスとブラスの絡み合いがより先駆的に響く。今作では現代ジャズギタリストシーンの至宝、ジュリアン・ラージとの共作も多数。特に「Another Half」でのエアリーに揺蕩うヴォーカルと、R&Bマナーなサウンド、そしてジュリアン・ラージのギタープレイの親和性の深さにただただ驚く。あまりにも心地よい。

 

8/25 Toro y Moi/Sandhills - EP

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作品ごとに色を変え続けているトロイモワ。前回はファンク、今回はフォーク。これだけ様々な音楽性を行き来していながらも、毎回オリジナリティが損なわれないのはもはや曲芸的である。しかしChazの声がこのアコースティックなサウンドに合うのなんの。Elliott Smithを引き合いに出したくなるグッドミュージック。

 

9/1 Puma Blue/Holy Waters

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サウスロンドン出身のミュージシャン、Puma Blueによる2ndアルバム。ネオソウル的アプローチが中心にありつつも、前作から更に内省的ダークさを増して、いよいよ後期レディオヘッドのようになっている。特にシビれたのは「Hounds」のダウナーなヴォーカルとブラス隊による金属音のコントラスト、徐々に熱を高めていくアンサンブル。暗い血が沸るようで最高。

 

9/15 Subsonic Eye/All Around You

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シンガポールのインディーロックバンドによる4thアルバム。彼らの音楽はある種の新しいシューゲイザーだと思っている。シューゲイザーは絵画で言うところの印象派であり、絵画では光を描くところを、音楽では揺れを描いている。このバンドは“揺れ”というものを歌で表現しており、さらにはこの歌を言語レベル(マレー語訛りの英語)で揺らしており、ギターのアーミング、エフェクターによるトーンの揺れに収束しがちなジャンルの閉塞感を打ち破ることに成功している(と俺が勝手に思っている)。インディーロックのフォーマットにありながらどこまでもエキゾチックでワクワクさせてくれる一枚。

 

9/22 yeule/softscars

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シンガポール出身のミュージシャン。ハイパーポップ、ヴェイパーウェイヴといったインターネット・ミュージックを通過した、ノイズ・グリッチを多用したアヴァンギャルドで幻想的なポップミュージック。アイコニックでアヴァンギャルドなビジュアルとキュートなヴォーカルのギャップになんとも惹きつけられてやまない。今作はなんとNinja Tuneからのリリース。前述したSubsonic Eyeもだが、ジャンルの垣根を超えて、アジア圏の音楽がとにかくアツい。「ghosts」のメロウでプレーンなサウンドでは彼女のメロディメイクの繊細さが窺える。

 

9/29 Slow Pulp/Yard

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今年のベストオルタナアルバム。Death Cab for Cutieのツアーに帯同するなど確実に知名度を上げているシカゴのインディーロックバンドによる2ndアルバム。2020年リリースの「moveyes」も非常に良かったが、今作も非常に良質なローファイ・インディ・オルタナを聴くことができる。「Slugs」での茹だるようなビートとファジーでローファイなギターと共に歌い上げられるラブソングは白眉。”Coz you’re summer hit, I’m singing it.”というフレーズがたまらない。

 

11/1 TEMPLIME & 星宮とと/POP-AID

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楽曲の作成を担当するTEMPLIMEとディレクション、ヴォーカルを担当するヴァーチャル・シンガー星宮ととのユニット。ポップス〜ガレージロック、クラブミュージックまで幅広い楽曲が堪能できる。クラウドファンディングで作品作成&ライヴ実施等を行い、完成した一枚。自分もクラウドファンディングに参加して、リターンとしてこの作品を受け取った。CD盤では既にリリースされているEP『Skycave』『Escapism』もまとまって収録された大ボリュームな一枚(ストリーミングだと上述のEPからは各数曲収録されている)。

リードトラックの一曲である「Tarinai」は楽曲のキュートさ、ポップさもさることながら、MVがとにかく最高。

Tarinai - HOSHIMIYA TOTO+TEMPLIME - YouTube

 

11/10 Pinkpantheress/Heaven Knows

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2ステップガラージドラムンベースリバイバル筆頭は間違いなく彼女。ほうぼうでこれが良かったと吹聴して回っている。シルキーなヴォーカルと上述のビート、日本であれば2000年代初頭にm-floがやっていたようなことをR&Bのテイストを土台としながら地でやっている感じ。「Ophelia」は死の匂いが立ち込めたような静謐さと透明さの美しさが抜きん出ている。

 

12/6 THE NOVEMBERS/The Novembers

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セルフタイトルに名折れなし。名刺代わりの大傑作。前作『At The Beginning』にてL'Arc〜en〜Ciel yukihiro氏によるマニピュレータの導入、Gt. Vo.小林氏のTHE SPELLBOUNDでの活動、Ba.高松氏のPetit Brabancon での活動、Drs.吉木氏のayutthayaでのサポート活動、Gt.ケンゴマツモト氏のドレスコーズへの客演など、ジャンルの垣根を超えたメンバーの音楽活動によって更に強固となったサウンドは、16年ぶり2度目のセルフタイトルに相応しいロックアルバムに相応しい。

1曲目「BOY」で掻き鳴らす轟音のギターロック、「Seaside」で魅せるニューウェーブライクなメロディ、高松氏のエキゾチックなベースラインが妖艶に輝く「Cashmere」、味わい深いミッドナンバー「かたちあるもの、ぼくらをたばねて」「抱き合うように」……。関ジャムにて川谷絵音氏も絶賛していたが、なぜこのバンドがミュージシャンに愛されるのか、その所以が余す所無く発揮された一枚(店頭販促文より引用)。

 

12/6 羊文学/12 hugs (like butterflies)

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この新譜を機にしっかりと羊文学を聴いた。今この時代を生きている人間の確かなブルーズがあり、とても良かった(昨年大石晴子の新譜を聴いた時にも同じことを思った)。

特に「honestly」からラストまでの流れが本当に良い。自分という身体・心からどうにもこうにも離れてくれない愚かさや虚しさに苛まれながら、それでもつづく生活を「FOOL」で最後まるっと抱えていく覚悟を明るく歌い上げる構成、自身を肯定する讃歌として素晴らしい。余談だが、ライヴで塩塚氏がジャケットのアートワークのように自らを抱きしめることを「バタフライハグ」と呼ぶと話していた。作品を聴いて感じたことの伏線が回収されたような気がした。

 

以上、全27枚でした。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました!

無題

12/22 10:17

家に帰ってから、ベッドに上着を放り投げなくなった。ベッドから更に数歩歩いた先のウォークインクローゼットに行って、ハンガーに上着をかける。これが一ヶ月続いている。一ヶ月前は、いや去年の冬も、それどころか一昨年の冬さえも、なんならこれまでのあらゆる冬において、どうにもこんな簡単なことができなかった。

そういえばリビングのフローリングで寝落ちすることもなくなった。冬だろうが夏だろうが糸が切れたようにフローリングに転がっていた俺が、ほとんど毎日ベッドで眠るようになった。

それほど多くはないが、「今のままではダメだな、変わらなければならないな」という気持ちが何の衒いもなく、何の勇み足もなく、何の抵抗もなく、まるでそうなることが当たり前であるかのように、ふと行動となって実現することがある。

ほとんどは鉄を打ち続けるかのように意思を持ち続けることでようやく変わるものが、さらりと変わる。そしてこのようにして一度変わったものは、そう容易くは元には戻らない。

恐らくこの時、きっと意思はほとんど作用していなかったように思う。何なら身体動作が先にあって、それに対して意思が後追いで反応しているといってもいいかもしれない。我々は意思というものが身体を支配していると思いがちであるが、そんなことはないのだ。脳で何かがまとまるより前に、既に身体は動き始めている。

動きがある。それに意志が伴う。そして慣性が生まれる。

近頃は動きーすなわちモード、ということについてよく考える。通勤時や仕事の休憩中に鷲田清一の「てつがくを着てまちを歩こうーーファッション考現学」を読んでいるからだろう。ファッションでいうところの“モード”という概念は奥が深い。これは生活に応用できるな、と思って、色んなところでモードというものをあてがってみようとしているが、残念ながら今のところあまり上手くいっていない。このことについてはもう少し知見を深めてから改めて踏み込んで文章にまとめてみたい。

いかにして動くか。耳を澄まして、肌感覚を研ぎ澄まして、目を凝らして、世界を認識し、それに相対する身体の揺れを感じ取る。揺れに意思を乗せて、その揺れをほんの少し大きくする。すると慣性が働き、やがて習慣が生まれる。やはり生活に結びつく気がしてきた。

上着をハンガーにかけるためにクローゼットに向かう時も、眠るためにベッドに向かう時も、ただただまずは身体動作を意識する。動こうとする予兆を掴み取れば、あとはその動きを増幅させるだけだ。