エアギターで腕が攣る

無題

12/22 10:17

家に帰ってから、ベッドに上着を放り投げなくなった。ベッドから更に数歩歩いた先のウォークインクローゼットに行って、ハンガーに上着をかける。これが一ヶ月続いている。一ヶ月前は、いや去年の冬も、それどころか一昨年の冬さえも、なんならこれまでのあらゆる冬において、どうにもこんな簡単なことができなかった。

そういえばリビングのフローリングで寝落ちすることもなくなった。冬だろうが夏だろうが糸が切れたようにフローリングに転がっていた俺が、ほとんど毎日ベッドで眠るようになった。

それほど多くはないが、「今のままではダメだな、変わらなければならないな」という気持ちが何の衒いもなく、何の勇み足もなく、何の抵抗もなく、まるでそうなることが当たり前であるかのように、ふと行動となって実現することがある。

ほとんどは鉄を打ち続けるかのように意思を持ち続けることでようやく変わるものが、さらりと変わる。そしてこのようにして一度変わったものは、そう容易くは元には戻らない。

恐らくこの時、きっと意思はほとんど作用していなかったように思う。何なら身体動作が先にあって、それに対して意思が後追いで反応しているといってもいいかもしれない。我々は意思というものが身体を支配していると思いがちであるが、そんなことはないのだ。脳で何かがまとまるより前に、既に身体は動き始めている。

動きがある。それに意志が伴う。そして慣性が生まれる。

近頃は動きーすなわちモード、ということについてよく考える。通勤時や仕事の休憩中に鷲田清一の「てつがくを着てまちを歩こうーーファッション考現学」を読んでいるからだろう。ファッションでいうところの“モード”という概念は奥が深い。これは生活に応用できるな、と思って、色んなところでモードというものをあてがってみようとしているが、残念ながら今のところあまり上手くいっていない。このことについてはもう少し知見を深めてから改めて踏み込んで文章にまとめてみたい。

いかにして動くか。耳を澄まして、肌感覚を研ぎ澄まして、目を凝らして、世界を認識し、それに相対する身体の揺れを感じ取る。揺れに意思を乗せて、その揺れをほんの少し大きくする。すると慣性が働き、やがて習慣が生まれる。やはり生活に結びつく気がしてきた。

上着をハンガーにかけるためにクローゼットに向かう時も、眠るためにベッドに向かう時も、ただただまずは身体動作を意識する。動こうとする予兆を掴み取れば、あとはその動きを増幅させるだけだ。