エアギターで腕が攣る

無題(Archive 2023)

4/20 10:14

昨日、THE NOVEMBERSのツアー「かなしみがかわいたら」を仕事終わりに観に行った。

開演までに仕事を終わらせることができず、一曲目を聴き逃した。諦めの気持ちで先に物販コーナーに赴き、必ず買うと決めていた歌詞集と、前々回のツアーの際に買い逃したライヴ音源を買った。歌詞集は重厚感のある装丁で、工業製品としての記号を極限まで削ぎ落としたデザイン。THE NOVEMBERSのスタンスに沿っている。

ライヴ音源は前々回のツアーの際に当時のパートナーと足を運んで物販コーナーで買おうとしたのだが、彼女の「あなた、それもう持ってなかったっけ?」という言葉に疑念を抱きつつも、自身の記憶力の乏しさと彼女の記憶力の強固さ、どちらに対しても揺るぎない信頼があったため、一旦持ち越したものだった。結局のところその音源は持ち合わせていなかったことが家に帰ってから判明した。

今になって思えば、記憶力に乏しい俺だが、紛失してしまい買い直すことはあれど、同じCDや同じ本をうっかり重複して買ったことはまだ一度もない。サブスクリプションで聴いた音楽は記憶から薄れがちだが、物理的な質量を経由して聴いた音楽は、表層的な記憶からは薄れたとしても、その片鱗が確実に自分の中に残っている。物それ自体の質量が与える触覚や、購入に伴う歩行、金銭授受、プレーヤーに円盤を入れ再生を行い、そして自室のライブラリに作品を収納する、といった体験は、昨今の時代ではなかなかに得難い。いずれ時代が進歩すれば、触覚をはじめとしたありとあらゆる感覚体験すらも電子の海で行えるようになるのだろうが、少なくとも現代の市井の人間にはまだ得られない。

話が逸れたが、畢竟自分の感覚を信じればよかったのだという、学びの話だ。

余談だが、後でSNSを辿ったところ、俺が聴き逃した一曲目は「Harem」だったらしい。二曲目からは聴くことができた。「ブルックリン最終出口」。いっとう好きな曲だ。

俺は自分のギターの音がとにかく好きで、自分が演ったライヴの音源なんかは他のミュージシャンの音楽と同じくらいの頻度で聴き直す。それはライヴの段階で、誰のためでもなく、自分が気持ちいいと思う音を捕まえて、ブチかましている、つまりはオーダーメイドの快楽がそこにあるから、ということに尽きる。もちろんバンドで演奏するということは聴衆の存在も含めて社会的な行為なので、一緒に演奏するメンバーとの音的間合いや、聴衆への配慮といったことはしっかりと考えた上での話である。

音的間合い、ということに関して、先ほど、敬愛する先輩の結婚式の披露宴にてOasisの「Champagne Supernova」を演奏した動画を観ていた。一緒に演奏したギターの友人とは大学の入学式で初めて顔を合わせてから、なんやかんやずっと一緒にいたのだが、実は同じバンドの中でギターを弾いたことはなかった。最初にスタジオに入った時に彼も話していたが、不思議な感慨があった。

お互いの音を認識し、対話ーこれは非言語的対話も含むーできるギタリストと一緒に演奏ができることはとても気持ちが良い。良い意味での緊張関係が発生する。どう相手の音が立ち上がるのか、どう自分の音を立ち上げるのか。弦がブリッジとナットの間で張り詰めるように、こちらとあちらの揺れを互いに見極め、気持ちが良い場所を探っていく。言葉以前の人と人のコミュニケーションの原風景がそこにあるような気がする。

無題

12/12 9:22

風邪を引いた。先週の頭からズルズルと長引いており、そろそろ嫌気がさしつつある。スケジュールの都合上しっかり療養できないのも辛い。

俺は一年に一度体調を崩せば珍しいくらいのタフさを持ち合わせているので、そう頻度は多くはないが、風邪を引く度に、風邪は“引く”ものなのか、と思う。くじのようなものなのか。もちろんウィルスは目に見えないし、それらがたまたま自分の免疫が落ちている時にぶつかってきて体調を崩す、というのはくじのように確率的な問題と言えなくもないが、免疫の低下は自らの不摂生が招くことも多く、確率的な問題に終始しない(=意思によってコントロールが可能な点もある)イメージもあり、どうも違和感が拭えない。

この辺りの曖昧さが、体調を崩して仕事や学校を休む人たちへの態度を難しくさせているのだろうか。

先に一年に一度体調を崩せば珍しいくらい、と書いたが、振り返ってみると最近はそんなことはなかった。思い出せるだけでこの数ヶ月で4回は体調を崩している。もうタフさを自称するのはやめようと思う。

俺はこれまで自身のタフネスに感謝するのと同じくらい、このタフさを心底うらめしく思いながら生きてきた。どれだけ辛いと思っても、身体が丈夫なせいで走り続けてしまえる=走ることを周囲から要請されるからだ。ただ、風邪を引いたりして自身のタフネスが揺らいだことで今回見えてきたのは、世の中タフなやつほど得をするということである。タフな人間ほど前線に出ている時間が長いため、相対的にそうでない人よりもチャンスが回ってくる。更にタフであるということは、ただそれだけで耐久性が高いという点で評価の対象となる。タフでなければそもそも土俵にすら上がらせてもらえない、ということまである。なかなか酷なものだ。

ただ、タフさは有限である。一度に大量に消費して限界を超えてしまうと、最大値が永続的に減少したままになる。チャンスに目がくらんでしまい、自らの限界を見誤ってしまうのはとても悲しいことだ。

 

 

 

 

無題

12/3 18:56

AMBIENT KYOTOに行った。

コーネリアス山本精一坂本龍一、Buffalo Daughtersといった錚々たる面子によるインスタレーション。時間が一瞬で溶け落ちる音空間だった。

インスタレーションというものに全く馴染みがなかったので、今回鑑賞するにあたって意味を調べた。

〘名〙 (installation 「取り付け」「設置」などの意) 現代美術の手法の一つ。作品を、展示する環境をも取り込んで、その総体を芸術的空間として呈示すること。また、その空間。

今回で言えば、音楽を立体音響で聴かせ、空間を照明や、霧で演出したり、そもそも空間自体を仕切ることによって、より多角的な音楽体験が可能な場になっていた。

会場は京都中央信用金庫 旧厚生センターと京都新聞ビル地下1階と二ヶ所に分かれており、それぞれが電車で10分ほどで行き来できる距離にある。

前者の会場は3階立てになっており、1階でコーネリアスの「Quantum Ghost」、2階では同じくコーネリアスの「Too Pure」、3階では「Dream in the Mist」、Buffalo Daughters「Everything Valley」「ET(Densha)」、山本晴一「Silhouette」の展示が行われていた。

後者の会場では坂本龍一「async」が、地下の広大な空間に設置された超横長のディスプレイで放映され続ける高谷史郎の手掛ける映像と共に、音楽と映像が非同期で流れ続ける。

まず「Quantum Ghost」だが、ステージを囲むように設置された何十台ものスピーカーから発される楽曲と、高田政義によるライティングのシンクロニシティによって、楽曲の新たな側面、いや、本来宿っていたであろうエッセンスが十二分に知覚される空間だった。ステージ中央に立ってサラウンドな音と光の往来に身を任せるもよし、ステージを遠巻きに眺めて駆け巡るそれらに視線を投げるもよし、インスタレーションとは何たるかということを思い知った。終盤でLEDの粒が音に合わせて少しずつ近づき、最後の一音でぶつかった瞬間に全ての照明が煌々と輝くのは、まさに素粒子反粒子対消滅によって宇宙が生まれる様を音と光によって表しているようだった。Quantum Ghost(量子の亡霊)とはよく言ったものだ。

続く「Too Pure」は3面のディスプレイを配置した小部屋に映像が流れていた。中央に座れば視覚をすっぽりとディスプレイが覆い、Quantum Ghostで生まれた宇宙で芽生えた生命の渦を描いたような、木々や草花や動物たちの駆け巡る映像に没入できる。中盤のノイジーな音の渦とリンクした映像には圧倒されるばかりであった。

そして同じくコーネリアス「Dream in the Mist」。数歩先の人の影すら消えてしまうような濃い霧で満たされた直方体の奥行きある空間の中、コーネリアスの「霧中夢-Dream in the Mist-」と共にライティングがこの非現実的な空間を満たす。レム睡眠とノンレム睡眠を行き来するように刻々と変わりゆく照明(特に深い赤色は、まさしく瞼を閉じた時に見える、瞼の薄い皮膚の下で流れる血の流れの色のそれだった)宇宙へのワープを想起させるようなクライマックスでの激しい明滅は身体感覚を消失させるのに十分過ぎるセッティングだった。

そしてこの会場での最後の展示、Buffalo Daughters「Everything Valley」「ET(Densha)」、山本精一「Silhouette」へ。

2台の巨大なディスプレイが対角線上に配置された部屋で、音楽と同期した映像が立て続けに3本放映される(基本同じ映像が流れているが、「Everything Valley」のみそれぞれのモニタで流れる内容が微妙に違った)。腰掛けの位置と柱、ディスプレイの位置が絶妙で、映像の全容を掴むためには折りに触れてもう片方のディスプレイにも目を向ける必要があった。ここでもそれぞれの楽曲のエッセンスが映像と立体音響により拡張され、音楽が自身に肉薄してくるようであった。

最後に、京都新聞ビル地下1階での坂本龍一「async」とこの作品のアルバムアートワークを担当した高谷史郎による非同期の映像によるインスタレーション。地下一階は印刷工場の跡地となっており、まるで電車の廃駅のような広大な空間に、坂本龍一の音楽がサラウンドで流れ、全長10mは優に超すであろう、超横長のディスプレイでアルバムアートワークの手法と同様の映像が放映され続ける。廃駅のような佇まいに先の会場の3階でのBuffalo Daughtersの「Densha(ET)」とのシンパシーを感じつつ、会場に設置されたベンチに腰をかけ、流れ行く映像と自身を取り囲む音の断片に身を預けていたら、気付くと閉場時間ギリギリになっていた。比喩ではなく、一日中あの空間で映像と音に身を預けることも可能だと思った。

以上、おおよそ3時間ほどかけてじっくりと鑑賞を終えた(最後の会場は都合30分ほどしか滞在できなかった)。

アンビエントミュージック(環境音楽)といえば、ブライアン・イーノによる空港のための音楽のイメージが先行する。これは自分の中では空間が先にあり、そこに音楽をあてがうような主従のイメージであったが、今回のインスタレーションは、むしろ音楽のために空間をあてがうようなイメージが強かった。そしてその空間と音楽が呼応し、やがて主従が消失するような体験だった。

 

展覧会公式ホームページはこちら。

https://ambientkyoto.com

無題

11/29 0:03

ひとがひとに対してひどく不寛容である現場に鉢合わせた。誰しも間違いはあるのだから、もっと寛容でいればいいのに、そうでなければ巡り巡って、いずれは自分自身も他者からの不寛容に潰されてしまうんじゃないか?などと考えたところで、はたと寛容であることを求めるのは、不寛容に対する不寛容であるな、と思った。

だからといって不寛容さを許容すべきだというわけではなく、自身の求めていることが不寛容であると分かった上で、社会全体の寛容さを増やすためには、時に不寛容であらねばならない、ということを言いたい。

自身の不寛容さを理解した上で求める寛容と、全き自分が正義であると信じて疑わずに求める寛容は、きっと招くものが大きく変わってくるだろう。

一時期「寛容のパラドックス」などという言葉が流行った。ありとあらゆることに対して社会が寛容で居続けると、いずれ不寛容さも寛容していくことになり、最終的に社会の寛容さが破壊されてしまう……という内容である。

このパラドックスが最終的に述べることは、ゆえに合理性をもって不寛容さに対して対抗できうる限りは、その不寛容に対する不寛容さを持たねばならない(社会は無制限に寛容であってはならない)ということである。

意固地に不寛容であってはならないし、また無思考・無制限に寛容であってもならないという単純な話ではあるが、いずれの場合も頭を使い、状況を俯瞰しなければならない行為であることは間違いない。そしてそれが単純に難しいのだ。

 

 

無題(Archive 2020)

1/9 3:18

昨日はいやに風が強い日だった。朝方には雨が降っていたようで、地面には水たまりがちらほらと見えた。雲は強風で押し退けられており、日差しが目に刺さった。

自分の書いた去年の文章を読み返していると、何とも甘美で穏やかな愛の日々を過ごしていたんだな、と思った。勿論文字にしていないが辛いこともあったし、諍いもあったが、それでもあそこにあったのは紛れもない愛だった。

今あの日々に戻りたいか?と聞かれると、もう戻りたいとは思わないが、少なくとも、少なくともあの日々の中で感じていたものは嘘偽りない愛そのものだったと、今でも思う。

その残り香のようなものが時折鼻先を掠める。

そんなことを考えていたらこんな時間になってしまった。

渦中にいる時は気付けないことばかりだ。あの時は一切曲を書けなかったし、書く暇も無かった。

愛の只中にいたのに、愛の歌のひとつだって書けやしなかった。

併せて、父のことも思い出した。届かないことばかりに思いを馳せてしまうのはひとの悪癖だ。手を伸ばしたいと思っているか否かに関わらず、届かないというただそれだけで思いを馳せてしまう。

母は一体何を考えていたのだろうか?きっと母にも風が通り抜けるように、過ぎ去った日々が去来することがあったはずだ。たかだか数年程度愛する人と過ごした俺がこの有り様なのだから、数十年連れ添った母は尚更だろう。

先日帰省した際には終ぞ聞く機会がなかったが、いつか尋ねることができる日が来るのだろうか?

尋ねるのはあまりに野暮かもしれないな。分からないな。

そういえば今日は父の誕生日だ。

無題

11/17 9:10

イヤフォンのイヤーピースを少し良いものに変えた。イヤーピースを選ぶにあたって、オーディオに明るい友人にアドバイスをもらったこともあり、従来のものと顕著に違いを感じた。パーツひとつでこうも音が変わるとは、ギターみたいだな……と思う。

そんなこんなでしばらくは音楽を聴くことが楽しくなりそうだなと思っていた矢先、イヤフォンを片方紛失した。まあ買ったイヤーピースはもう1セットあるのでいいか、と気を取り直して少し良いイヤフォンを買い直した。

今朝方そのイヤフォンが届いたので開封したところ、初期不良で充電ができなかった。なかなか味わい深いコンボである。以前の俺なら、このように立て続けにアンラッキーに見舞われるとひどく取り乱したものだが、今回は随分と落ち着いたものだった。恐らく、この出来事を一連の結果としてではなく、連綿と続く事象のあくまで通過点でしかないと認識できたからだと思う。これが過去に視点を繋ぎ止められてしまうと非常にネガティヴな方向に走っていただろう。

翌日、返品手続きを行なって更にもう少しだけ良いイヤフォンを買い直した。結果最初に持っていたイヤフォンの倍近い価格のものを手に入れることになった。デザインはもちろん、非常にいい塩梅の音で気に入っている。通過点オーライ。

 

 

無題

10/30 10:40

しばらく順調に回っていた生活がまた回らなくなってきた。洗濯物や洗い物が溜まり、掃除が滞ると、それらに足を取られ、頭の容量を取られ、いいことが何ひとつとしてない。どこかしらでグッと踏み込んである程度修正をかけるタイミングが必要になるのだが、全くその余裕がない。こうなる前にちまちまと踏ん張るタイミングを作っておけばよかったと思っても後の祭りなので、大人しく踏ん張るその時を見計らうしかない。

家の近所に金木犀の木が大量に植えられている場所がある。数本なんて可愛いものではなく、アパートが丸々ひとつ建つような土地に、まるで果樹園のように30本近い金木犀の木が植えられている。

毎年秋口になるとその金木犀園から香気が溢れ出す。本来ならふわりと街角で感じ取るその香りにさりげなく風流を感じるようなものだが、ここまでの物量で香ってくると風流もへったくれもあったものではない。甘い香りのフルスイングっぷりに思わず笑い出しそうになりながらも、どこか憎めずにいる。俺が様々なあれこれを経てもなお未だに引っ越すことなくこの場所に住んでいるのは、きっとこの金木犀のちぐはぐさに愛着があるからな気がしている。

金木犀の花が地に落ちて朽ち始めると、グッと土の匂いが湧き立つ。生と死のコントラストが目に眩しく、鼻に刺さる。ちょうど今はそんな時期である。