エアギターで腕が攣る

無題

11/29 0:03

ひとがひとに対してひどく不寛容である現場に鉢合わせた。誰しも間違いはあるのだから、もっと寛容でいればいいのに、そうでなければ巡り巡って、いずれは自分自身も他者からの不寛容に潰されてしまうんじゃないか?などと考えたところで、はたと寛容であることを求めるのは、不寛容に対する不寛容であるな、と思った。

だからといって不寛容さを許容すべきだというわけではなく、自身の求めていることが不寛容であると分かった上で、社会全体の寛容さを増やすためには、時に不寛容であらねばならない、ということを言いたい。

自身の不寛容さを理解した上で求める寛容と、全き自分が正義であると信じて疑わずに求める寛容は、きっと招くものが大きく変わってくるだろう。

一時期「寛容のパラドックス」などという言葉が流行った。ありとあらゆることに対して社会が寛容で居続けると、いずれ不寛容さも寛容していくことになり、最終的に社会の寛容さが破壊されてしまう……という内容である。

このパラドックスが最終的に述べることは、ゆえに合理性をもって不寛容さに対して対抗できうる限りは、その不寛容に対する不寛容さを持たねばならない(社会は無制限に寛容であってはならない)ということである。

意固地に不寛容であってはならないし、また無思考・無制限に寛容であってもならないという単純な話ではあるが、いずれの場合も頭を使い、状況を俯瞰しなければならない行為であることは間違いない。そしてそれが単純に難しいのだ。